i2x1jbog.JPG「マスコットにも人権」 日ハムのB・Bが訴える

プロ野球、北海道日本ハムファイターズのマスコット「ブリスキー・ザ・ベアー」(愛称B・B)が、球団の公式ホームページの書き下ろしコラムで、一部の心無いファンによるいたずらの悩みを打ち明け、「僕たちマスコットにだって人権がある」と訴えている。
 コラムは8月23日から掲載。頭や体を強くたたかれる、言葉の嫌がらせなどは日常茶飯事で「信じられないのは子どもばかりではなく、いい年をした大人にも多い」と嘆いている。大人の女性に、背中のファスナーを開けられそうになったこともあったという。
 B・Bは行為の悪質化を危ぐする一方で「できる限りファンとの距離の近いマスコットであり続けたい」と願う。そして「笑顔の向こうには、あなたたちと同じような感情があるという事を忘れないでほしい」と呼び掛けている。
(共同通信) - 8月30日

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まあ、グリーティング中の着ぐるみにつきまとう「暴力的なクソガキ」っていうのは、有史以来のデフォルト設定と言っても過言ではなく、一説ではゴキブリが絶滅しても、やつらだけは生き残ると言われてるくらいで根強い繁殖力があるといわれております。

じゃ、何でこのお子様達は着ぐるみ達にこの様な執拗な暴力を振るい続けるのか?先頃発表された学説によると、幼少期の着ぐるみに対するアティチュードというのは、一般に3つのステージに区分される様です。第1期は、まだ着ぐるみは、着ぐるみそのものがそういう生き物だという認識で、人が入っているとは思わず、単純におとぎの世界のフェアリーとして、フレンドリーに、憧れのまなざしで接してくる時期。第2期は、やがて着ぐるみの中には人が入っていることを知り、その恩着せがましいきらびやかな世界に拒否反応を示す時期。要はこの時期の子供というのは、「なんだよ、いい大人のクセにそんなコドモだましみてえな手使いやがって!俺がメタメタにしたる!」という、作られた社会への反発というか、そういう自我の目覚めに基づくプロテスト心が、ああいう暴力につながっているのだと思います。そして第3期になると、やがてそんな破壊的行動が逆に恥ずかしい事であることを悟り、着ぐるみの中には人が居るという事を知っていても、その場のTPOをわきまえて、それなりにフレンドリーに接するようになる時期。この再び着ぐるみを着ぐるみとして扱えるようになる現象を、「年少期着ぐるみ回帰現象」と学会では呼んでいます。すみません、全部口からでまかせです。ゴメンナサイ。

ま、思春期を目前に控えた子供にとって、場の雰囲気を無理矢理彩ろうとしている様に見える着ぐるみの存在というのは、どうにもむずがゆいもので、ついおちょくってしまう気持ちというのは、解らないでもない。僕もかつて少年野球団のイベントで出かけたアスレチックランドで、なんともしなびた薄汚いミッキーのばったもんみたいな着ぐるみに対し、悪友と一緒に無数のナックルパンチを頭部にお見舞いし、挙句の果てには「んも~~っ!痛いからヤメテぇっ!」という女の人の声を出させてしまった苦い過去があるし。

では何故こういうことになるのか?これは着ぐるみの中には人が居るという事実を、知らせるタイミングと手段の問題だと思う。どんな子供でも、いずれ着ぐるみの中には人が入っている事を知る。いや、知らなければならない。この事実の隠蔽を引き伸ばし過ぎて、自我が強くなってしまってからこの事実を知ると、「だまされた!」という気持ちが強くなり、「子供をだますずるい大人の社会」に対する反抗心がより強くなるのではないのでしょうか。(ちなみに、逆にフェチの道を歩む可能性もある・・・)

あとは、「着ぐるみ=中に人」をどうアナウンスするかだが、やっぱり敬意を払いながら教えるべきだと思うんですよね。「あれ、あんなぶりっこしてるけどな、中に人がはいってるんやで♪」なんて言い方すると、興味本位の対象になっちゃう。この世代の子供というのは、子供扱いされてる自分にものすごく敏感だから、「こういう場では、みんなも楽しんでるんだから殴ったり蹴ったりするのは、逆に大人げない、みっともないこと」なんだと、いかに教えられるかというところに、保護者の力量が問われているんでしょうな。

ところで、僕もあらためてこのブリスキーのコラムを読んでみたのですが、これってブリスキーのコラムというより、「ブリスキーの中の人」のコラムですよね(笑)。そもそも冷静になって考えてみると、「マスコットにも『人権』を」って言葉はおかしくないか?「クマ権」か「マスコット権」ならわからないでもないけど。でも普通この手のコラムってそのキャラになりきって書いてるものが多い中で、完全に中の人の立場から書いているという点では個人的には好きですが。

ともあれがんばってください、ブリスキー。