ebfl9pl7.JPG何故僕は、そんなにも着ぐるみの中身になりたいのか?

単に着ぐるみを身に着けるだけでは満足せず、着ぐるみで公衆の面前に出てグリーティングをしたいと思うのは何故なのか?

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冷静に考えれば、着ぐるみとは、人がちょっと厚めの生地を身につけ、頭にお面を装着しているだけのものなのである。

それでも、厚めの防寒着や、バイクのフルフェイスヘルメットには反応せず、着ぐるみに反応してしまうのは何故か。

今日渋谷のゲーセンでポストペットの着ぐるみを見て僕は悟った。

・階段を登るのに、視界が悪く、足元がおぼつかないから、両脇にスタッフに抱えてもらいなが歩く姿

・喋ることが出来ず、ジェスチャーで客に訴えるその姿

これに反応している自分が居るのだ。

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ああいう公衆の場で着ぐるみを着ている人は、もはや単に「着ぐるみを着ている人」なのではない。

着ぐるみを着たら一旦、その人は、普段のその人ではなく、普段素の時なら何でもない様な階段の登り降りや、前方の視界確保さえもままならない。そして何より、会話というものを奪われる。

これはすなわち、中の人が、「着ぐるみそのもの」になってしまっている事を意味するのだ。

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そして、この「『着ぐるみ』にさせられてしまっている」状態こそ、僕が恋焦がれる事なのだ。

単に部屋の中で、クマの着ぐるみを着るだけでは、心が満たされない理由がわかっていただけるだろうか。

僕は着ぐるみが着たいんじゃなく、着ぐるみにさせられたいのだ。

着ぐるみを着て、着ぐるみそのものになる替わりに、歩行や視界や呼吸や会話の自由を剥奪されたいのだ。

着ぐるみに己の肉体を捧げ、キャラクターそのものになることを強いられる事、それこそが、僕の憧れなのだ。



ここまで着ぐるみについて熱く語れる自分を、感心してしまう…